私はまず、ウラジオストク国際空港でタクシーを見つけることから始めた。噂に聞いた通り、白タクの運転手がたくさん声を掛けてきた。しかし、私はなんとかにタクシーの手配カウンターまでたどり着くことができた。
幸いなことにタクシーはすぐ到着し、私は大学までたどり着くことができた。

大学に着いてすぐ、私は学校の中にあるオフィスに行き、入学手続きを取った。ここで最初に気づいた事がある。ロシア人が話すロシア語は全く聞き取れなかったのだ。そのロシア人の職員は、実は先生であったことも数か月後にやっと知った。それほどに、ロシア語の発音は聞き慣れていないと全く聞き取れないことを痛感した。

私は内心、とても焦っていた。ここで入学手続きが出来なかったらどうしよう。日本に帰るしかないのかなと思っていた。しかし、幸運の女神は突然あらわれる。ガイドの人が居たのだ。彼女が話をつけてくれて無事に入学手続きを終えることができた。もしこの日誌を読んだ人が今後ロシアに留学する場合は、最低でも半年はロシア語の基本的な単語を暗記し、発音の聞き取りを十分に練習していくことを強く推奨する。

その後、やっと学生寮にたどり着いた私は入口に入った所で固まっていた。その建物はソビエト時代に建てられた建物を改修して使っていた。建物として相当古く、もちろんエレベーターなんて無かった。私はそこの6階まで、重たい旅行カバンを担いで階段を登って行った。

部屋にたどり着き、ドアを開けると想像した通りだった。殺風景な部屋に机とベット、ところどころ壊れた部分がある家具、その部屋でこれから住むのだ。私は床に転がっていたホウキを手に取り掃除を始めた。出来るだけ今ある環境を快適にしようと思った。部屋は3人部屋で、3人も人間が入ると結構な窮屈さを感じるものだった。私は英語圏の留学について調べた事があったのを思い出していた。まるでホテルのようなキレイな部屋で学生たちが学生生活を謳歌している写真がたくさん掲載されているホームページだった。

極東連邦大学でもそういうキレイな場所はあるのだが、残念ながら私が入寮した場所ではないようだった。私はこの環境で生活することも訓練だと思うことにした。快適な環境で勉強するだけなら誰だってできる。むしろ今の日本では快適であることを当然と受け止められている。しかし、快適は当たり前でないことを昭和生まれの私は知っていた。そして、困難な環境で訓練を続けた人間の精神は磨かれることを経験的に知っていたからだ。

そして翌朝、初めてのロシア語の授業が始まる。