私はロシアに行くことを決意した。その日から私は自分をロシアへ向かわせるために必要な大量の作業を処理することになった。通常、日本のほとんどの会社では社長が外国に居ることに慣れていない。その為、必要な手続きが掲載されている参考書などは無い。どんな作業が必要なのか1つずつ入念に専門家に確認する必要があった。

結果として私は200を超えるタスクを洗い出し、その全てを自力で処理することになった。しかし、この経験は私にとってその後、非常に有益な経験となった。また、専門家とのパイプも非常に役に立った。

私が今回、教育訓練先として選んだのはロシア連邦 ウラジオストクに在る極東連邦大学だった。ここで約1年のロシア語教育を受けることを決めた。ウラジオストクは日本から飛行機で2時間の距離と近い場所にある。しかし完全にロシア語圏である。私は作業を処理しながら今後、自分の身に何が降りかかるのかを予想していた。

そして、5月を迎え中旬が過ぎ、いよいよ月末が来た。飛行機に乗る時間だ。私は数年住んだアパートで旅行カバンに荷物を詰めていた。着替え用の服、ロシア語の教科書、辞書など。向こうでどんな生活になるのか全く分からなかった。でも、今まで学んできたことはきっと、どんな状況下でも自分の身を助けるだろうと信じるしか無かった。
部屋を掃除していて、私はふと思った。この部屋に来た時、自分は何も持って居なかった。そして今、また何も持たず旅立とうとしている。自分は元々ゼロから始まっていてそれに戻るのだから、何も惜しむことはないだろうと考えた。

そして、ついでに勉強しようと思ったその他の教科書は郵便局からEMSで送ることにした。ここで後日、トラブルが発生する。 そのEMSは結局のところロシアに住む私には届かず、日本へ送り返されることになった。 日本郵便局にEMS用の段ボールを持ち込んだ時、局員の方からこう言われた。「今、ロシア向けのEMSは遅延が起こっています。少し到着が伸びると思います。」
当時、東京でEMSを送ると、成田の国際局に運ばれその後、モスクワ周辺の国際局に空輸される。その後、ロシア鉄道を通じてウラジオストクにまで運ばれる。ロシア鉄道を経由するため、少なくとも1か月は掛かることが後で分かった。。。ロシアは広いからとロシア人に言われたが、本当に広さを感じる出来事だった。また、EMSのルールではEMS伝票は英語または現地語で書いてよい事になっている。しかし、ロシアの事情として英語を理解する人間が非常に少ない。そのこともあり、私のEMSは東京に送り返されることとなったようだ・・・

その様な事を経験したことも、私にとっては有益な経験だった。企業を経営する人間にとって郵便は今でも非常に重要な手段となっている。国際郵便でもその重要性は変わらないが、普通に破損、汚損、紛失や送り返すことが発生する。すると、取引上の重要な書類はEMSなどの手段で送ることはリスクがあることを体験した。
この様なことも、実際にその国に行かないと知らないままでいた。だから、大昔から現在に至るまで、多くのビジネスマンや学生たちが外国に行くことは有益であり、続いているのだと感じた。

成田空港まで旅行カバンはとても重かった。空港の中は大勢の人でにぎわっていた。航空券を受け取り、私は今から自分がロシアに飛ぶ飛行機に搭乗するのだという実感が湧いてきた。保安検査場で私の大事なノートPCが3回もX線検査を受けるはめになったからだ。何が問題なのかよく分からなかったが、無事に通してくれた。

アエロフロートの航空機が窓の外に見える。ジェットエンジンの甲高い音が聞こえる。通路を通り抜け、機内に入るとロシア人のCA達が出迎えてくれた。自分は旅行で行くわけじゃない。未来、自分がシステム技術者として大きくなるために、いま留学に行くのだと考えに耽った。これは思いつきなんかで出来ることじゃない。何度も計画を振り返り、確実な事務処理をいくつも積み上げる必要があった。それを全て自分で行ってきたところから、既にこの教育訓練が始まっていたのだ。

私はウラジオストクにその時まで行ったことが無かった。どんな街なのだろう?どんな人たちが居るのだろう?何が起こるのだろう?そんな考えを他所に、アエロフロートの機体は滑走路に入り、そして離陸した。飛行機は時折揺れながら、しかし安定して飛行した。そして機長から機内アナウンスが流れた。ロシア語で話されたアナウンスはその時の私には全く聞き取れなかったが、シートベルトを締めろという合図のランプが光った事で、機体が着陸態勢に入った事を知った。

多少の揺れのあと、飛行機は無事にウラジオストク国際空港に着陸した。私の留学が始まったのだ。